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テコンドー民団道場
東京南麻布に韓国居留民団会館があります。
月刊空手道にテコンドーの特集記事が載っていました。そこでテコンドーを教えてるという。
まだその時はテコンドーの道場は日本には少なくて探すのに苦労しました。
私は空手の黒帯を持っていたのですが、テコンドーの存在は前から知っていて、華麗な後ろ回し蹴りのイメージがあり、興味があったのです。
韓国の民団会館は渋谷駅からバスで30分程二の橋バス停前にありました。
見学に行くと、そこには黒帯を閉めた30歳ぐらいのサラリーマン風の人が練習していました…。
この人は小池さんといいテコンドー黒帯初段の人でした。テコンドーの前は和道流の空手をやっていてそちらも黒帯初段でした。
日本人ですが鎌田さんという人がものすごい綺麗な技を放っていました。
彼も和道流の黒帯でテコンドーは赤帯。空手で言えば茶帯の三級から一級くらいです。
身長170センチの私より、だいぶ背の低い溝井さんはテコンドー初段の黒帯で、組手が強かったです。
民団道場は場所がら外国人の練習生も多くいました。
常任国際師範の李基都氏はテコンドー5段で28歳、韓国テコンドーの、国内大会でチャンピオンでもあり、またキックボクシングの試合経験もありました。
それじゃ勝てないよ
「一発一発は空手の方が重くて効くかも知れないけど、連続技できないとダメよ」
「腰を低くしてたら遅いあるよ」
「コンビネーション大事ね、わかる?」
結構、流暢な日本語で言ってました。
来日してまだ1年ほどらしい事は他の道場生に聞いていました。
彼はスパーリング(組手)専門のコーチということも。
この時にテコンドーの黒帯を取っていた人は李さんの前に来ていた型専門のコーチから免状をもらっていました。
彼らは組手専門のコーチがきたから嬉しいよと言ってました。
「人は一発では倒れませんよ、コンビネーションができないとダメなんです」。
「それじゃあケンカになったらあんた負けるよ!じゃあ試しにやってみようか」と血気盛んな李師範でした。
私は空手の技をくり出しましたが当たりません。
じゃあ次はカウンターをとりますと李師範。繰り出す技に対してカウンターを取ってきました。
今まで見たことないようなことがないような技の連発です。
頭の上から足が降ってきました。 テコンドー独特の技である、踵落としです。
変化技からの踵落としは読めません。手加減してくれているものの何度でも食らいました。
この時のテコンドー全日本大会で3位になったと言う、ドンガラという黒人がいまして、黒人特有の粘りがある技から繰り出す強烈でした。
同じ頃入門した糸東流空手初段の横野くんは、寿司職人の修行中でしたが、修行先の板前先輩などに、怪我をしたら仕事に差し支えるので辞めろ、と言われていましたね。
2ヶ月ごとにやる審査
それにしても早すぎだろ?せめて半年に1回でいいでしょと思ったものですが、師範の金銭的事情で審査を早めているようでした。
他に結構、他武道の経験者がほとんどなので審査を早めてるのか?審査料や帯代など結構な金額ですからね。
次から次へと審査用にテコンドーの型を覚えさせられました。
松濤会江上空手に比べて腰高で手足のスナップを効かせた素早い動きが特長です。
私は民団道場の頃は何だかんだいって、審査を受けないでいましたから、ずっと白帯でした。
実力もともなってないのにどんどん昇級してもな…と思っていました。
というより師範同じく私も金銭的に不遇でしたから。
空手もやめたわけではないので、テコンドーの練習の帰りに、空手道場にも顔を出し、黒帯相手にテコンドーの技を試したりしてました。
この民団道場は大韓航空撃墜事件あたりから閉鎖になり
立ち入り禁止になりましたね。
横浜アリーナ裏の雑木林
ちょうど横浜アリーナが出来た頃でしょうか。
鶴見川の河川敷に適度な雑木林があり、いつも自主トレーニングに使っていました。まず土手を6キロ走り、ストレッチからはじまり基本稽古。巨大なサンドバッグが木に吊るされていてその持ち主が現れるのを待ってました。
ずっと吊しっぱなしです。
ある日にトレーナーを着た痩せた若者がサンドバッグを蹴っていました。
声をかけるとサンドバッグの持ち主でした。
東京農大に通う学生さんで、近くのキックボクシングのジムに通ってまだ半年ですとS君は言ってました。
渋谷の武道具屋さんから電車に乗せて運んできたそうです。
いやあ、いい練習相手が見つかったなと私は思い、S君に声をかけてサンドバッグを使わせてもらうごとになり、2人で毎週日曜日には一緒に練習するようになりました。
S君が地方に就職するまで2.3年続いたように思い出します。
神奈川のテコンドー道場
神奈川イーグル会。田中角栄元首相のボディガードを務めていた、空手家の塩谷巌さんが率いる鷲会と言う神奈川県のチームです。
ソウルオリンピックにテコンドーが公開競技で行われるということで、もとは空手道場だったのがテコンドーの道場に塩谷さんが変えたのです。
李師範もこちらにテコンドーを教えに来ていました。
この頃後にオリンピックに出場した、塩川寛和や大木勝博、近藤尚などが入門しました。
なまじ空手の経験があるより、他のスポーツ経験がある若者の方がテコンドー体得には向いているとは、塩谷監督の言葉でして、大学サッカー部出身の塩川、大木らのその後の実績を見ればわかりました。
私が一番印象に残ったのは小泉君という若者で、テコンドーらしい動きをしていました。
私の場合は空手の癖が抜けず、いまだテコンドーと空手の間の動きをしていました。
当たってしまいました
普段の自主トレーニングでは金的蹴りの練習をしており、道場でのスパーリングもたまにそれらの技が出てしまい、よく反則だと言われました。
ある日スパーリングでテコンドーの李師範に向け金的蹴りを放ちそれがもろに当たってしまいました。
故意ではないものの変化技で癖で金的に足がいってしまうのです。
途中から李さんは顔面の色が変わり、真っ青になり、道場の畳にしばらく仰向けになり師範が寝ていまいした。
やっぱり実践なら金的だなと思ったものです。懐かしい思い出です。
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